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生活情報
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そう話すのは、「沖縄戦」を生き延びた藤井昭夫さん。那覇市出身の藤井さんは11歳の時、避難先の祖父の家で「沖縄戦」に巻き込まれました。祖父の家があったのは、凄惨な「沖縄戦」を描いたハリウッド映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった浦添市の「前田」。 日本軍の強力な守備陣地があり、激しい戦闘が幾度も繰り広げられました。藤井さんと母、祖父母が避難している横穴の壕に米軍の爆薬が投げ込まれたときには 爆発で何も見えず、わずかな飲み水を防空頭巾に浸し、鼻と口に当てて、苦しさに耐えたといいます。「前田」では住民の約6割が犠牲になりました。奇跡的に助かった藤井さんたちは、逃げ込んだ山で日本軍の陣地を見つけましたが、兵士から 「ここは戦場になるからここから離れてくれ」と追い返されました。そのため、日本軍の司令部があった那覇市の「首里」を目指し首里方面に逃げましたが道中、「すごい弾痕があった。その中に落ちてから這い上がっていったが10人くらい遺体があった。それを踏みつけて弾痕から出た」。 避難する途中で祖母は行方不明に。沖縄に総勢55万人を投入した米軍に対し、日本軍は約10万人。その3割ほどは中学生以上でつくる「鉄血勤皇隊」と呼ばれる学徒隊など現地で招集した住民でした。「働ける男性全てが防衛隊に駆り出され、若い女性の切り込み隊。若き生命が爆薬を背負って戦車への 突撃もあった。小さな壕に隠れて戦車が近づくと爆薬を投げ込む。みんな戦死した」 米軍の猛攻を受け、日本軍は退却。砲爆撃に追われるように藤井さんは敗走する軍や避難民の流れにのって南部に移動。その途中の海岸で祖父は艦砲射撃で受けた傷により亡くなりました。そして、沖縄本島最南端の喜屋武岬では米軍の戦車隊に追われた際に砲弾の破片で母が負傷。 母は藤井さんの頭に鍋をかぶせて「神様、どうかこの子を助けてください」と繰り返し唱えたといいます。その後、藤井さん親子は米軍に投降。地獄のような戦場から藤井さんを守り通した母も2年後に亡くなりました。 「沖縄戦では軍隊が住民を守ってくれなかった。全く守ってくれなかった。住民を“スパイ視”したという恐るべき日本軍の体質があった。捕虜になることも“スパイ視”された。降伏しなければ米軍に殺される。降伏すれば日本軍から射殺される。これが住民の立場だった。」 1945年6月23日、日本軍の組織的な戦闘が終わりました。3か月にわたる沖縄戦で日米双方の犠牲者は約20万人以上に上り、その6割が沖縄の住民でした。 沖縄戦末期、米軍に追い詰められ、自決を覚悟する従軍看護婦の女子学徒たちを諭したある軍医の言葉が残っています。「死ぬことだけが国への奉公ではない」「自分にはあなた方と同じくらいの歳の子どもがいる」「あなた方はどうぞ生き延びて 沖縄戦のことを 伝えてもらいたい」